■朝廷との関係を築けなかったもう一人の棟梁
源義朝の異母弟・義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。母は遊女。義仲には異母兄がおり、以仁王の乱の際死亡した頼仲である。源頼朝とは従兄弟の関係にあたる。父・義賢は1155年の大蔵の戦いで義朝に殺されている。吾妻鏡によれば、当時3歳であった義仲は中原兼遠に連れられ本拠・木曽へと逃れている。尚、斉藤実盛はこの逃亡に手を貸した一人という。義仲は木曽の地にて中原氏らの庇護を受けて成長していく。
1180年、以仁王の乱では、源行家の
1184年、根井行親、楯親忠を宇治に向かわせ義経軍と戦わせるが敗走(宇治川の戦い)。それを聞いた義仲は後白河法皇を
連れ逃亡を図ろうとするが義経軍によって遮られてしまった。義仲は越前国へ逃亡すべく、瀬田で範頼軍と戦っていた(瀬田の戦い)今井兼平と粟津で合流を図るも範頼軍に散々に蹴散らされ、僅かな手勢となったところを討ち取られてしまった。
鎌倉で人質となっていた子・義高は義仲が討死したのに合わせて殺されてしまった。戦国時代に見える木曽氏はこの義仲の子孫を称している。
平家物語などでは略奪行為などが目立ち悪い印象を受けるが、現在ではこれは不当なものという見方が一般的となっている。 |