■鎌倉幕府の創始者
源三郎頼朝という。源義朝の三男として生まれ幼名は鬼武者といった。母は由良御前であり、兄・義平、朝長の母親よりも身分が高く、頼朝は実質的な義朝の後継者とされている。1159年からの平治の乱の際は、父・義朝らと途中ではぐれ、平頼盛の家人・平宗清に捕えられてしまう。本来は処刑されるであろう立場であったが、平清盛の継母である池禅尼の助命があり伊豆・蛭ヶ小島への流罪となった。この時13歳であった。伊豆での生活は詳細は分かっていないが乳母比企尼や義朝に仕えた家臣らの支援があり、比較的自由な生活を送っていたとされる。この頃、頼朝の監視役でもあった在地豪族の北条時政の娘である政子と結婚し、大姫が生まれている。政子との結婚は当初反対されており、政子が頼朝の下へ走ったエピソードがある。
次に歴史の表舞台に登場するのは1180年、以仁王の乱の時である。叔父・源行家から令旨が届けられるが頼朝は静観していた。しかし計画が露見し、京の三善康信から奥州へと逃げるようにと連絡があったが頼朝は兵を挙げることを決意する。
1180年8月、山木兼隆の館を攻め討ち取った。続いて石橋山の戦いに臨むがこれに敗北し安房国へと逃亡するも10月には周辺の豪族を味方に引き入れ鎌倉を本拠地とした。
同月、平維盛と富士川の戦いで対峙するが、維盛が水鳥の音に驚き退却してほぼ戦わずして勝利した。この頃源義経と合流し手を取り合って喜んだという。頼朝はこのまま京へ攻め上ることを考えるが、上総広常らが地盤固めを提案しそれに従った。以後1183年頃まで関東周辺の制圧に専念した。1183年春になると先に上洛していた源義仲との対立が鮮明になり、1184年1月には義仲を粟津の戦いで破った。
ここから範頼、義経ら弟を大将にし平氏追討を行う。1185年壇ノ浦の戦いで勝利した後は弟・源義経、それを支持する院側とも対立するようになり、義経を京から追い出した後は朝廷に強硬な姿勢で臨むようになった。同年10月、大江広元の提案する守護・地頭の設置(文治の勅許)を認めさせた他、法皇の近臣を交替させるなど全てに目が届くよう手を下していく。1187年、義経を匿ったという理由で奥州へ攻め込み(奥州合戦)、奥州藤原氏を滅ぼし手中に収めた。
頼朝は征夷大将軍となることを希望していたが、後白河法皇が存命中はそれが叶わず、死去した1192年ようやく征夷大将軍となることができた。以後は地方支配の強化、朝廷の掌握のために工作を行うなど鎌倉幕府の基盤強化に奔走した。
1198年、相模川橋の供養の帰路で体調を崩し(落馬説がある)、翌1199年に53歳で死去した。
頼朝の功績としては江戸幕府まで続く「幕府」という武家政権を確立したことであろう。征夷大将軍が武家のトップであるということや守護・地頭による各地の掌握など、全国を掌握していくシステムはこの頼朝から始まったものである。自ら戦場に赴き指揮を執る様子はあまり見られていないため影が薄いが、朝廷との政治的な駆け引き、御家人を束ねていく力を持っていた人物なのである。 |