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・源頼朝 ・源範頼 ・阿野全成 ・源義円 ・源希義 ・源義久 ・源広綱
・源義嗣 ・本間義忠 ・大内惟義 ・多田行綱 ・足利義清 ・足利義兼 ・平賀義信

源 頼朝 (みなもとの よりとも) 1147-1199
■鎌倉幕府の創始者
 源三郎頼朝という。源義朝の三男として生まれ幼名は鬼武者といった。母は由良御前であり、兄・義平、朝長の母親よりも身分が高く、頼朝は実質的な義朝の後継者とされている。1159年からの平治の乱の際は、父・義朝らと途中ではぐれ、平頼盛の家人・平宗清に捕えられてしまう。本来は処刑されるであろう立場であったが、平清盛の継母である池禅尼の助命があり伊豆・蛭ヶ小島への流罪となった。この時13歳であった。伊豆での生活は詳細は分かっていないが乳母比企尼や義朝に仕えた家臣らの支援があり、比較的自由な生活を送っていたとされる。この頃、頼朝の監視役でもあった在地豪族の北条時政の娘である政子と結婚し、大姫が生まれている。政子との結婚は当初反対されており、政子が頼朝の下へ走ったエピソードがある。
 次に歴史の表舞台に登場するのは1180年、以仁王の乱の時である。叔父・源行家から令旨が届けられるが頼朝は静観していた。しかし計画が露見し、京の三善康信から奥州へと逃げるようにと連絡があったが頼朝は兵を挙げることを決意する。
 1180年8月、山木兼隆の館を攻め討ち取った。続いて石橋山の戦いに臨むがこれに敗北し安房国へと逃亡するも10月には周辺の豪族を味方に引き入れ鎌倉を本拠地とした。
 同月、平維盛と富士川の戦いで対峙するが、維盛が水鳥の音に驚き退却してほぼ戦わずして勝利した。この頃源義経と合流し手を取り合って喜んだという。頼朝はこのまま京へ攻め上ることを考えるが、上総広常らが地盤固めを提案しそれに従った。以後1183年頃まで関東周辺の制圧に専念した。1183年春になると先に上洛していた源義仲との対立が鮮明になり、1184年1月には義仲を粟津の戦いで破った。
 ここから範頼、義経ら弟を大将にし平氏追討を行う。1185年壇ノ浦の戦いで勝利した後は弟・源義経、それを支持する院側とも対立するようになり、義経を京から追い出した後は朝廷に強硬な姿勢で臨むようになった。同年10月、大江広元の提案する守護・地頭の設置(文治の勅許)を認めさせた他、法皇の近臣を交替させるなど全てに目が届くよう手を下していく。1187年、義経を匿ったという理由で奥州へ攻め込み(奥州合戦)、奥州藤原氏を滅ぼし手中に収めた。
 頼朝は征夷大将軍となることを希望していたが、後白河法皇が存命中はそれが叶わず、死去した1192年ようやく征夷大将軍となることができた。以後は地方支配の強化、朝廷の掌握のために工作を行うなど鎌倉幕府の基盤強化に奔走した。
 1198年、相模川橋の供養の帰路で体調を崩し(落馬説がある)、翌1199年に53歳で死去した。
 頼朝の功績としては江戸幕府まで続く「幕府」という武家政権を確立したことであろう。征夷大将軍が武家のトップであるということや守護・地頭による各地の掌握など、全国を掌握していくシステムはこの頼朝から始まったものである。自ら戦場に赴き指揮を執る様子はあまり見られていないため影が薄いが、朝廷との政治的な駆け引き、御家人を束ねていく力を持っていた人物なのである。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
95 68 65 72 82 90 35 68
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源 範頼 (みなもとの のりより) 1150?-1193?
■弟・義経の影に隠れた堅実なる人
 頼朝の異母弟で源義朝の六男にあたる。母は遠江国池田宿の遊女とされている。範頼は遠江国蒲御厨で育ったことから蒲冠者とも呼ばれていた。義経の活躍の影に隠れ凡庸とされている人物だが、頼朝に代わり大軍を率いて平宗盛らを滅亡させ、九州まで勢力を拡大させた技量は評価されるべきである。九州への侵攻で食料や物資の欠乏で苦戦を強いられる場面があるが、これも準備が整わない内に強行した頼朝に非がある面が多い。また、大人しい性格とされているが度々御家人と乱闘を起こすという荒々しい場面も見せている。
 1159年平治の乱で父・義朝が死亡した際はその姿は見えないが、藤原範季によって養われ遠江国蒲御厨で日々を過ごしている。範頼の「範」は養父・範季から一字貰って付けている。
 次は1181年2月の野木宮の戦いで小山朝政の加勢として登場する(吾妻鏡)。以後頼朝に従っていったと思われる。この野木宮の戦いであるが小山朝政が指揮を執った戦いであり、範頼は従っていたと考えられる。
 次に活躍が見えるのは1184年、頼朝から大将軍に任命されて以降である。源義仲を宇治・瀬田の戦いで撃破、一ノ谷で平氏を撃破した。二つの戦いでは疾風のような弟・義経の活躍が目立つが、大軍を率いて確実に相手を追い詰める範頼の活躍も忘れてはならない。同年6月三河守に任じられている(源平盛衰記より)。
 上洛後の8月、頼朝より九州侵攻を命じられ主力軍を預けられる。この九州侵攻は上記のように物資不足であった上、平氏の勢力下にある地域であったため苦戦を強いられるが、葦屋浦の戦いで原田種直らを打ち破り九州を勢力下に収めることに成功した。さらに義経の活躍にて屋島の戦いで敗北した平氏はいよいよ彦島へ追い詰められることとなる。
 1185年3月、壇ノ浦の戦いでは陸上で弓を射かけるなど支援し、戦後は九州で領地運営を行う。九州侵攻を任じられて以降、頼朝の命に従い忠実に任務を遂行したことは評価されるべきであろう。1189年には奥州征伐にも従軍した。
 1190年11月、上洛した頼朝が大納言と右近衛大将に任じられたが、その儀の行列の前駆を務めている(吾妻鏡)。
 頼朝に意に背き滅ぼされた義経に比べ、忠実な範頼は信任が厚かった。
 しかし、その範頼にも陰りが見えてきた。1193年5月28日の曽我兄弟による工藤祐経の暗殺(曽我兄弟の仇討)発生の際、頼朝の殺されたという情報が流れた。心配をしている政子に「範頼がいるから大丈夫」という言葉をかけたことが不信感を抱かせるきっかけになったという。さらにその後に忠誠を誓った起請文を送るが源氏姓を名乗ったことで逆鱗に触れたり、範頼の家人が頼朝の寝所に潜ったことでさらに疑いは強まって8月17日に伊豆の修禅寺に流される。その後、梶原景時らが攻め込み範頼は自刃したと伝えられている。敷地内には範頼の墓がある。尚、この修禅寺は頼朝の子・頼家が暗殺された場所でもある。
 範頼の最期には別の説もあり、修禅寺から武蔵国石戸に逃れて隠れ住み1200年に死去したという話が残っている。範頼には子がいたが、比企氏の庇護を受け武蔵国横見郡吉見庄を与えられた。そこから吉見姓を称し存続していくことになる。尚、それまでの吉見氏との関係は不明だ。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
66 68 51 30 72 79 36 69
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阿野 全成 (あの ぜんせい) 1152-1203
頼朝の異母弟。妻は北条政子の妹で、実朝の乳母となった。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
72 60 53 19 82 83 67 25
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源 義円 (みなもと ぎえん) 1155-1181
■頼朝の下に馳せ参じるもすぐに討死
 源義朝の八男で幼名は乙若丸という。母は常盤御前であることから、阿野全成、源義経と同母兄弟ということが分かる。1159年平治の乱の際、弟たち共々に捕えられてしまうが、処刑を免れ園城寺(滋賀県)に預けられた。平治物語を見ると義円を始め三人が処刑、流刑を免れたのは母・常盤御前が清盛の寵愛を受けたことが大きいようである。
 園城寺に出家して以後は円恵法親王に仕える坊官となり、卿公円成と名乗った。
 1180年、頼朝が挙兵し関東周辺の豪族を従えつつあることを知ると馳せ参じてその勢力に加わった。尚、卿公円成(義円)や阿野全成らが続々頼朝の下へ馳せ参じるのを危ぶんで土佐の源稀義は早々に殺されたという。頼朝勢力下に加わって以降、義円を名乗る。
 1181年3月、頼朝追討の軍を迎え撃とうとしていた源行家は墨俣川河畔に陣を敷き(墨俣川の戦い)、平重衡と対峙する。義円は頼朝の命でこれに加勢した。しかし初戦の夜襲に失敗して義円は討死してしまった。兄を思って無理をした結果討死したとも言われる。この岐阜県大垣市には義円公園があり、敷地内には供養塔などがある。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
53 73 61 14 59 28 43 59
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源 希義 (みなもと まれよし)1152?-1180?
■頼朝に再会できなかった同母弟
 母は由良御前であり頼朝の同母弟にあたる。土佐で育ったため土佐冠者などと呼ばれる。1159年平治の乱の敗北の際は駿河国香貫にいたが、叔父である藤原範忠に捕えられ差し出されてしまった。頼朝同様に処刑される身であったが平清盛の継母である池禅尼の助命で頼朝が流刑となったのに合わせて希義も流刑となったようである。平治物語ではこの流刑の前に希義と名付けたとのことである。その後土佐介良荘で育つ。
 1180年頼朝が挙兵すると希義は同調する可能性があると危険視され追討令が出された。それを察知した希義は支援者であった夜須行宗の夜須荘へ向かおうとするが、蓮池家綱、平田俊遠らに察知され年越山で討死したとされる。尚、この死亡には諸説あり1182年となっていたり(吾妻鏡)、自害して果てた(平治物語)といった記述もある。頼朝はその死をいたく悲しんだという。
 希義の墓は高知県高知市介良の西養寺跡に残っている。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
72 67 37 47 66 36 60 62
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源 義久 (みなもと よしひさ) ?-1183?
■平氏抵抗勢力の弦島城主
 平家物語にその名前が見える。六条判官源為義の子とあるが、為義の子・頼賢の子である。また源義嗣と兄弟とされているが従兄弟である。義久は淡路冠者と呼ばれていた。
 1183年平氏が都落ちをして以降それまで従っていた阿波、讃岐の在庁官人らが源氏側へ付く動きが見られるようになった。彼らは帰順の手土産にと備前国下津井(岡山県倉敷市)に陣を敷いていた平教盛らの陣を攻めた(六ヶ度の戦い/下津井の戦い)。しかし反撃に遭い淡路へと逃れる。落ち延びた者たちは義久・義嗣らを大将として担ぎ出し弦島城(兵庫県南あわじ市福良)で迎え撃とうとしたが平教経らに散々に蹴散らされ落城した(六ヶ度の戦い/福良の戦い)。義久のこの戦いで生け捕られ後に自刃して果てたという。子の義邦は生き延びて源行家の下へと落ち延びていった。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
52 69 22 41 54 63 55 65
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源 広綱 (みなもと ひろつな) ?~?
■源頼政の末子
 摂津源氏の出で源頼政の末子。源仲綱の養子となる。1180年以仁王の乱で頼政が敗死した時は有綱と共に知行国である伊豆国にいたため生き延びた。1189年の奥州合戦に参加。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
69 63 57 33 60 55 68 67
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源 義嗣 (みなもと よしつぎ) ?-1183
■淡路で大将として担ぎ出される
 平家物語にその名前が見える。六条判官源為義の子とあるが、為義の子・頼仲の子である。また源義久と兄弟とされているが従兄弟である。義嗣は加茂冠者と呼ばれていた。
 1183年平氏が都落ちをして以降それまで従っていた阿波、讃岐の在庁官人らが源氏側へ付く動きが見られるようになった。彼らは帰順の手土産にと備前国下津井(岡山県倉敷市)に陣を敷いていた平教盛らの陣を攻めた(六ヶ度の戦い/下津井の戦い)。しかし反撃に遭い淡路へと逃れる。落ち延びた者たちは義久・義嗣らを大将として担ぎ出し弦島城(兵庫県南あわじ市福良)で迎え撃とうとしたが平教経らに散々に蹴散らされた(六ヶ度の戦い/福良の戦い)。義嗣のこの戦いで討死した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
53 69 23 40 52 36 59 67
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本間 義忠 (ほんま よしただ)
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
48 72 22 23 55 49 33 66
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大内 惟義 (おおうち これよし)
相模守・駿河守・修理権大夫。幕府では朝廷との折衝を担当。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
63 62 44 20 53 79 30 59
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多田 行綱 (ただ ゆきつな)
伯耆守、六位蔵人。鹿ヶ谷の陰謀を平清盛に密告した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
74 61 60 48 25 71 37 61
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足利 義清 (あしかが よしきよ)
源義家の曾孫。義仲に従う。水島合戦で討死した。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
60 81 25 53 49 42 33 75
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足利 義兼 (あしかが よしかね)
義清の弟。頼朝の従弟。頼朝に与し、平氏追討には範頼に従属。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
78 72 38 38 66 77 40 64
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平賀 義信 (ひらが よしのぶ)
武蔵守。源義光の孫。平治の乱で義朝に従い、のち頼朝に従う。
知才 武力 優雅 勇名 菩提 加護 無常 弓術
90 59 60 23 61 71 37 62
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